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旬刊わかる合気・できる合気術

51歳から始めた合気柔術の修行の様子、技の進歩、停滞、試行錯誤、考察を書き連ねていきます。

合気と気功の関係は?その③ 気功がもたらす心身変容プロセス

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    初期ギリシア哲学者達は、宇宙の根源をなすものが、「水」であるとか「数」であるとか「アトム」であるなどと考えました。それと同じように古代中国人は宇宙の根本原理は「気」であると考えたのです。

 

この理論を人類史上最高の科学とテクノロジーの時代である20世紀の後半から21世紀前半を生きる私が信じかと問われれば、「信じる信じないの問題ではなくて、それは、単純に現代科学とシステムが全く異なる」としか、とりあえず言えないと考えています。ひょっとすると、素粒子研究が物質の究極の構成最小単位であり、エネルギーであるものを見出すかもしれません。だからといって、それが伝統的な気の概念とどこが同じでどこが異なるかはまた別の話です。

 では、何故20年以上も気功を継続しているのかといえば、それは、気功が現実的に心身に作用するからです。そして、気功が心身の変容のプロセスを持っているからです。

 

   気功をやり始めれば初心者でも手のひらの間に磁石のような感覚が生じてきます。  そして、私の場合は腕を流れる感じは割と早くつかめました。あくびが何度となく出て来て、顔は涙と鼻水でグショグショになります。そのあと、洗顔すれば、滅多にない良質な睡眠の後の様な爽快感が得られます。全身を気が巡っていると感じられる時の気持ち良さは、「恍悦」と表現しても良いかも知れません。はじめた頃は、からだ全体の気を回せるとすごいことになるのかと思っていましたが、それができたからと言って、超能力が使えたり、悟りを得たり、わたしの人格が高まったりは別にしていません。もちろん、心身がスッキリして、疲れや肩こりなどが軽減した感じはあります。それだけでも結構なご利益ではあります。

 

 肩の位置がどこまでも沈んでいく様な感覚を味わうときもあります。ずいぶん落ちたなと思った肩が、更に、さらに、まだ落ちるという感じで落ちていきます。まさに「どれだけ肩肘を張って生活していたのか」と驚かされるばかりです。何故肩肘を張って生活するかといえば、そうすることがより良くというか、よりうまく、より問題を少なく社会生活・家庭生活を送っていけるとわたしたちが、無意識に思い込み、その身振りを選択しているからにほかなりません。ここで選択と言うのは比喩です。無意識なのですから、主体の行為である選択はなされません。そう、それは対人関係におけるクセのようなものです。社会的なものであれ個人的なものであれ癖になったふるまい方、それは無意識なのですから、通常は自覚できません。自覚できる場面は、ふるまいの全く異なる社会に行ったとき、あるいは自分の行動を動画にとって観察してみたときです。気功にはそうした、自らの無意識のふるまいかたを自覚させる力、つまり、ニュートラルな心身の有り様を実現する力があるのです。

 

 自覚できれば、「では、ひどく肩肘張っている自分のふるまいをどうするか」という、選択が可能になってきます。つまり、クセで動いてしまう、習慣で動いてしまうプログラムされた自動機械のようなものから、選択が可能である自由な存在に変わっていける。そんな力が気功にはあるようです。

 

 自発動功という意識せずに体が動いてしまう功法があります。これも約20年前、中健次郎さんという気功師の合宿に参加したときのことです。先生の誘導に従っていると、腕の内側から突き動かされる感じがあって、腕が勝手に動き出しました。他人の腕の様に意思とは関係なく動くのですからこれは驚きました。この時は自分で上手く静めることができずに、先輩の鍼灸師気功師の先生に鎮めてもらいました。  身体というのは思っている以上に自己調整力があるのでしょう。普段、身体に課しているカセを気功で外してあげると、必要な運動を自ら起こして、不具合を調整する、そのようにして起こるのが自発動功だと私は考えています。

 

     またある時、木の下で站椿功をしている時に不思議な感覚を味わいました。身体があるという通常の感覚がなくなってしまいました。つまり普段私たちは身体と外界の境界を感じることができますが、その境界の感覚がなくなってしまったのです。そうすると、身体の内外がない。あるのは、ただただ、気感だけという感覚になりました。全てが気でできていると感じられたのでした。

 

     こういう事が、自分に起こったからといって、宇宙と自分は一体だとか、宇宙は全て気でできているとか、私は一歩悟りに近づいた、などとは全く思いません。はっきりしている事は、気功というメソッドが心身に対して以上のような大変興味深い現象を起こすということです。ある現象が起こるからといって、その現象の背景だとされる理論を受け入れるのには余程慎重でなければなりません。

 

   臨死体験で光やお花畑などを見たという報告がなされます。その報告を受けて生理学者は「どうやら、天国が我々の3次元的な世界の他に存在するようだ」とは考えません。臨死状態の時、多くの人々にそのようなビジョンが見えることが事実なのかどうかを検証します。そしてそれが事実だとしたら、どうしてそのようなことが起こるのか機能的な連関と、目的論的な意味を探ります。例えばこのような推論です。「死への苦しみや苦痛を軽減させるために、脳は神経伝達物質を盛んに分泌させる。それによりそのようなビジョンを見るのではないか」

 

    天国が存在するという推論と脳内物質を原因とする仮説、どちらもまだ検証されていないのですが(笑)とりあえず、推論としては後者の方が優れているのです。科学の推論では「必要以上に存在者を増やしてはいけない」という「オッカムの剃刀」と呼ばれる原則があります。天国を認めると、神や天使も悪魔も認めなければなりませんし、ひょっとすると三途の川や奪衣婆(だつえば)も認めないといけないかもしれません。これでは存在者が限りなく増えてしまいます。

 

  と言うことで、気功を実践していくなかで起こってくる比較的明確なエネルギーの流動感、自発動、擬似悟り感覚、これらの現象が存在するとしても気功の背景としての陰陽五行思想を認めなければならないということにはなりません。残念ながら深層のリラックス状態で心身にどの様な現象が起こり、それらがどういう生理的な因果関係で生じるかは科学的に解明されていません。ですので、そこで私のできることは、気功実践の中で生じてくる諸現象を諸現象のまま記述することです。つまり、この現象はの医学的、脳科学的にはどういうことかということはカッコに入れてる。あるいは、陰陽五行思想という背景抜きにひたすら身体にどういう感じが起きてると言うことを記述するということです。そういう方法論のなかで、気功のもたらす心身の変容と武術、宗教、健康といったものとの関係や結びつきを解明していきたいと思うのです。

 

気功や合気の関係を述べる前提として、気の理論と私の立場と語る際の方法をずいぶん長々と述べてきました。ではそれらを前提とすれば、気功と合気の関係は一体どういう事になるのでしょう?次回はいよいよ本題に入ります。

 

それでは皆様、お元気で!

May the Force be with you!

※2017年2月15日更新予定です。

 

 

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